輸入住宅の歴史的考察(個人的な考察です)

私は、30年間、輸入住宅に関わり、24年間年自宅として米国風17世紀のコロニアルスタイルな
家を建て住んでいます。
調度品は,、出来るだけ各家の時代様式に合う物を、時間をかけて調達しました。生活をしてみると、
家全体の集積度が増すにつれ、完成度が高まり美的環境の質が向上し居心地のよい空間となりました。
以下の記述が若い輸入住宅ファンの諸氏自らのライフスタイル追求の一助になれば幸いです。

第一期(黎明期)
 日本で初めて輸入住宅が建てられたのは、明治43年(1910年)頃からです。東京の琴平町に明治42年11月、橋口信助が「あめりか屋」を設立。当時,アメリカよりバンガローあるいはコテイジなどの組み立て住宅の輸入、販売をはじめました。

 この頃、アメリカではシアーズローバック等の小売店が、通信販売でハウスキットを販売していた時期で、「あめりか屋」もこれらのハウスキットの一部を輸入していた可能性があるが詳細は不明。
尚、北米ではハウスキットは2500ドル〜3000ドルで販売されていた。因みに当時の外為レートは1ドル約2円であり、これのもとづき計算すると約5000円、当時の夏目漱石の年収の約2倍にあたる。
漱石が娘に買ってやったピアノの代金が400円の頃の話です。漱石夏目金之助は明治40年「朝日新聞」に入社、数編の小説を新聞に連載し、明治43年3月より6月の中旬まで小説「門」を連載。後、胃潰瘍治療で入院の後、修善寺に静養に出る。然しこの間、暴風雨の中、修善寺温泉の菊屋本店で病が悪化して死に瀕した。
  また明治42年、石川啄木は小説を書くことを志し北海道より東京へ出たが、彼の思惑は実現せず、生活に窮するばかりで、ようやく知人の紹介で「朝日新聞」に校正係として入社、その食の口を得る。月給30円であり家族をかかえ貧乏と悪戦苦闘を強いられていたので。
同じく明治43年、伊藤博文がハルビン駅頭で暗殺され、11月4日東京で国葬、11月5日関東平野で明治天皇親閲の下に、陸軍の秋季特別大演習が挙行された年でもありました。
一方、文学者、岩野泡鳴(いわのほうめい)が原稿生活を断念、樺太へ蟹の缶詰事業に乗り出し、まもなく事業に失敗いたし、失意の中、札幌にて鬱々とうち過ごした頃です。彼は有名な札幌の時計台も目にしたはずですが、特別な興味は懐かなかったようです。(詳しくは彼の小説「放浪」をお読みください。大変面白い小説です。特に男性諸君にお奨め致します。
  とにかくも「あめりか屋」の住宅は高等官僚、,大学教授,医者、資産家等に人気があり、全国にひろまりました。其の時代背景としては、大都市の発展に伴う、中産階級の誕生、わけても高等教育の普及するに従い、高い教育ゆえ伝統的な主人中心的生活を盲目的に継承することなく、家族を中心とする新しい生活を取り込んだ住宅が求められていたのです。
当時頻繁に開催された博覧会では新しい家庭生活の提案的な催しも行われ、また婦人雑誌でも、西洋の合理的な生活提案が盛んになされるようになりました。そのような状況の中で、橋口は協力者を得、「住宅改良会」を中心として椅子座式生活様式の便宜性を普及させるための啓蒙活動をおこします。
このような展開は本質的には旧来からの生活様式を西洋個人主義思想にもとずいた改良であり家族中心的生活様式の誕生と同時に封建的生活様式の崩壊でありました。(ペチコートカバメントの始まりです。)
今日では其の考え方は全国的に普及しつつありますが、明治の末期頃は大都市のホンの一部に興った、小さな渦みたいなものでありました。例えば「あめりか屋」の住宅は当初、資材を輸入していたようでありますが徐々に資材を国内で調達加工して、用いるような風になりました。このところが今日の輸入住宅の動きと違うところです。あくまでも、欧米の先進的個人主義思想の影響を受けた、住宅改良的思想が中心にあつたのです。
詳しくは内田清蔵著「あめりか屋商品住宅」をお読みください。尚、今日でもこの会社は健在で、大阪と京都にその会社があります。
大阪の会社には私も訪ねたことがある。

第二期(成長期)

 その後、輸入住宅として、日本の社会に現れたのは1980年頃からです。つまり私達が創業した頃です。国内に海外生活経験帰国者が増え、当時の日本の住宅事情とのあまりの「質の落差」に驚きの声が出ている頃でありました。
当時は今日のようなやや普及型住宅のイメージではなく、どちらかと言えばか、なり高級住宅とのとらえかたがなされていました。其の輸入住宅が、やはり大都市知識層を中心として広まったのは建築資材の質の高さは勿論の事ながら其のデザイン、住宅の創り出す空間のダイナミズム、際立った高級感をともなう品質と、そのような事柄が具体的に現れている住宅だったからなのです。くどくなりますが、それが当時は歴然としていたのです。
ここにおいてもライフスタイルの先進性が当時の一部の人々(オピニオンリーダー)を捉えたのです。それはまたホンの小さな渦みたいなものでした。
第一期との大きな違いは輸入建材が住宅の隅々まで使用されていたことです。主役は北米の建材でした。デザインも北米のハウスプランからのもの、もしくはそれに強く影響を受けたデザインやプランが主流でした。その大きな理由の一つは時代背景にあります。其の当時活躍していた世代の人々はアメリカ文化の影響を全ての面で受けていたからです。
特に多感な少年期より青年期にはアメリカの映画、音楽、車、ファッション等若者を強く引き付ける物が隅々まで入り込んできていたからのです。彼等が成長する頃は今では信じられないほど貧しい時代だったのですが彼等が間接的にでも接する世界はとてつもなく豊かな世界だったのです。つまり「憧れの世界」だったのです。その様な「憧れの世界」から建築資材やその周辺の文物が流入してきたのです。
為替が230〜240円の時代でした。因みにこのころは輸入住宅に関係する日本語の書籍は皆無。勉強するには海外の洋書のみ私も丸善には随分通いました。


第三期(混乱期)

  輸入住宅が本格的に普及したのは外為のレートが100円を切り始めた頃からです。1990年後半と言うことになります。我が国の外貨保有高が、異常な伸びを示しそれが国際問題に発展、輸入額を促進する為に、当時の通産省が住宅の内外格差を解消するために、色々な策が計られ、住宅を丸ごと輸入すれば、金額的にもボリュームがあるので、黒字削減の大きな要因になるとの思惑で、積極的な促進策が実行されました。住宅の内外格差も大きくメディアに取り上げられ、業界への新規参入者も激増いたしました。
多くは、安さを最大の売り物にする、新規参入者でした(安いから輸入住宅)。その多くは現在残っていません。
其の理由は唯一つ複雑な「業務内容」に精通していなかつたからです。ご存知のようにこの輸入住宅の業務には建築業者としての実務能力のほかに、国際流通に関する知識、想像力(クリエーティビティー)、語学力、程々のインテリジェンス、特有の知識(ヨーロッパアメリカの住宅に関係する物)、それに経験が必要です。これらの習得に時間がかかるのです。ですから安易に参入した企業、業者は撤退、若しくは消えて無くなりました。しかし輸入住宅、及び、其の思想は日本に根付きました。この頃より輸入住宅に関係する日本語の書籍が大量に出版されるようになり知識も普及しました。

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