飛駒の歴史
飛駒と云う土地に係わり、かれこれ40年になる。飛駒の歴史には日本史に華やかに描かれるような英雄豪傑、王侯貴族のたぐいは登場しない。関東周辺、いや日本全国津々浦々に存する山里と同様に何の変哲もないことが、飛駒の魅力なのです。

飛駒の歴史を記述するにあたり変哲のない時空間をいかに面白く読みやすく書くかと云うことに少し苦労をしましたが、皆さんに読んでいただければ幸いです

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飛駒の歴史

2001年1月31日 制作

このページを作るにあたり、自分がこの地域の歴史的経緯につきまったくの門外漢である事にきずき、取り急ぎ近くに在る県立図書館に駆け込み慌しく関係書籍を調べはじめましたがあいにくと狭い地域の事柄ゆえ「田沼町町史」を読んでも飛駒に関係する記載は少ないのですが興味をひく事柄もありましたので下記のようにまとめてみました。

歴史の示すところによると、平安時代から鎌倉時代には彦馬川の流域の村々は足利庄に属しいたが、中世末には、荘園制が崩れこの地域は佐野の武士と足利の武士の争奪の場となり、佐野氏は桐生氏と協力して足利の長尾氏に対抗しようとした。その為、足利方は佐野、桐生勢の連絡路を遮断しようとして、しばしば須花坂や大阪を越えて侵入した。名草側には長尾氏の家臣の居城である本覚山城などがあり、下彦馬にも小坂城、悪戸城、大網城などの砦があった。
明治維新以後は足利方面との関係は更に密接になる。薪炭や用材、まゆ、和紙などの産物は馬背のみでなく荷車や荷馬車で運ぶ要求が高まり、明治22年須花坂に手掘りのトンネルがつくられ足利経済圏に対する依存度は加速した。

トピックス

飛駒村の奥に二箇所の湯治場があった!
寺沢の「宝倉の湯」は上寺沢の森島宗一氏所蔵の版木によると、すでに今からおよそ四百年もまえの「天正之頃繁昌いたし候処、其後子細え有り相休み」とあり「今般私方にて相初め候間、賑々敷御入湯之程希い上げ奉り候」と書かれ、晴右衛門が再興している。御兎も角も明治十年頃まで営業していたと言う。この鉱泉の効能は主として皮膚病であったというが、版木には「第一せんき、すんばく、むし、かつけ、しつしん、ひぜん、万の腫物、其外諸病によし」と記されている。中山利市著「磨墨はかくおいたつ」によれば宝倉の湯は昭和7年関谷峯吉が再興し、文化的浴室を備えた立派な旅館として栄えたが同17年頃戦争の激化に伴って廃業したという。現在は谷奥の源泉に薬師如来を祭る祠が残るのみである。


また
明治43年石月定吉が多高山東の打越に二階家を建てて、多高の湯を開業した。毎日3,40名の浴客で賑わった。昭和26年定吉没後も細々と続けられたというが現在はゴルフ場と化し昔を偲ぶ松が二本残っている。娯楽の乏しかった農山村の人々は、農閑期に米と味噌を持って随分遠くから湯治に来たものである。病気でもないひとも激しい農業労働の疲労回復の目的があったのである。
キリスト教教会があった!
飛駒村鍋沢の景山謙斎一家は、明治12年より桐生町のキリスト教会より牧師を招いて集会を催し、同じ村の人達にも参加を勧めている。明治15年頃からは直接、東京は浅草教会に加わっている。
謙斎、文久三年(1863年)江戸にて西洋医学を修め、慶応三年(1867年)帰村。明治9年種痘担当医、明治13年貧民施療医となる。景山家の墓地には十字架を刻んだ娘の碑が残っている。
尚、謙斎は医業のかたわら織物工場を経営したが日曜日は休業とし女工達に牧師の話を聞かせたという。明治23年この地の信者はここに日本キリスト一致彦間教会(後に飛駒教会)を設立した。しかし明治31年解散してしまった。(高崎寿著郷土史論考より)
井伊直弼が飛駒まで来た!
江戸末期に発生したあの「桜田門外の変」の主役方で歴史的有名人井伊大老が、なんと飛駒の大学院で昼食を摂った。
井伊直弼は日光東照宮参詣と佐野領15町村の巡見のため1853年旧暦3月25日同地を訪れ、名主助左衛門宅で小休し、大学院(かって根本山登拝飛駒口の基地として栄え現在は住家や宿坊は荒廃の後森林公園となる)で昼食を済ませ折り返し下彦間村岩下万吉方で小休後佐野方面に向かう。下野佐野巡見を無事終え帰府した直弼をまつていたのは同年6月の米使ペリーの来航であった。一方1845年頃より全ヨーロッパ規模でジャガイモの疫病が蔓延し各地で飢饉・食料危機が勃発、特にアイルランドでは大飢饉は約7年間続き社会全体に致命的な打撃を与えることになる。じゃがいもによりかろうじて生命を維持してきた貧しい民衆は、生き延びることすら難しい状況に陥った。約百万人が餓死ないしは餓えが原因の病で死にいたり、約百五十万人が故郷を棄て新大陸に渡った。アメリカはヨーロッパよりの難民を抱え急激にその人口を増す。その結果、生活の必需品である鯨油の需要は増し、捕鯨活動は活発になり航海に必要な物資を調達する為にペリーをして日本に向かわせたのである。もしこの飢饉がなかったとしたならば日本の開国はなかったかもしくは大分遅くなり井伊直弼は死なずにすんだかもしれないし近代日本の歴史は別の展開をした可能性もある。世界の出来事は複雑に影響し合い遥かに離れた極東の地にもその影響が及んだのであった。

(イヤー昨日は驚きました。このページをこしらえ終えて自宅でテレビを見ていたらNHKの「其のとき歴史は動いた」で井伊直弼の番組を放送しているではありませんか。直弼が非常に身近に感じられた一時でした。ところで其の時の番組の内容では、直弼は彦根藩の実家で不遇を囲っており時の偶然で1850年第十三代藩主に襲封したので、飛駒を訪れたのはその三年目の春だったのですね。)

特別企画飛駒人物伝


今日的「飛駒」のイメージを形成する「顔」の一部分は、理想的な生活の「場」を求めて、それを、この地にみいだし、定住する人々の精神的コミュニティーとネーティブな共同体が保有する農村文化が程よく融合して、起伏にとんだ山間に展開している。

文化とはその風土と其処にうごめく人間が織り成す綾でありその地の香りである。
次にその香りの素となる人物をご紹介します。
 
題して:    飛駒人物伝
 
火山先生:飛駒を語るうえで、第一に取り上げられるべき開祖的人物。
       他の人には見られない強烈な個性、人間的魅力、
       音楽に対する純粋な生き方は人を引き付けずにはおかなかった。
       彼がこの地に光を与えた。
 
遠藤氏 :飛駒が生んだ素晴らしいヒルビリー。野人である。彼の個性的な生き方、
      独特なライフスタイルは人を引き付けずにはおかない。彼の存在はこの地の
      風景には欠かせないものとなった。近沢街道の中腹に生息する。
 
大沢氏:彼の飛駒でのビジネスの成功の鍵は、鋭い感性と揺るぎ無い信念、
     その哲学的にまで昇華した 思想にある。経営する「ドンキホーテ」は飛駒には
     欠かせぬ風物となり、十余年の歳月をへてその吸引力を強めている。 
 
小暮夫妻:この地のやや南に存する、小さき谷間に北米コロニアルスタイル、白亜の住宅に住む。
      夫妻とも自然をこよなく愛し、住むこと二十余年、土着す。夫人の描く風景画にその情愛を
      よく映し出す。
 
五島先生:真の芸術家である。以前、家を自分で建てることを思い立ち情熱をもって
       取り組んでいる姿を見掛けた。
      以来、その現場を時々覗くが変化は無い。聞くところによると、家を飾るステンドグラスの
      研究にはしり、エネルギー投入はその方面に集中しているとの風説しきりである。
 
星野氏:無農薬農業家である。彼の土に取り組む姿勢は敬服に値する。
     また、彼の物質文明よりの決別的ライフスタイルは会う人々に深い感動を
     与えずにはおかない。この地での彼の存在は大きい。土着度も高い。
 
満田夫妻:夫人の繊維作家としての活躍と行動力は協賛者を引き付ける。
       作家としての作品に投影する芸術性も円熟期にさしかかり、一方では
       その創造性の発展も問われるところである。今後の活躍が期待される。
       夫妻の土着度も増してきた。主催する「森の仲間達」作品展もコアな
       イベントになりつつある。      

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